「追い求める」テモテへの第一の手紙 6:11~16

深谷教会聖霊降臨節第2主日礼拝2024年5月26日
司会:悦見 映兄
聖書:テモテへの第一の手紙 6章11節~16節
説教:「追い求める」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-360
奏楽:野田治三郎兄

説教題:「追い求める」 テモテへの第一の手紙6章11~16節

 大金持ちになることは古今東西誰もが夢見るものです。お金があると生活が豊かになりますし、あって困るものではありません。しかしそのお金は人を狂わすもので、人の欲望に付け込んで来る悪いものもあります。お金のトラブルは本当に絶えず起こる人類の問題であると思います。最近ではメジャーリーガーの大谷翔平選手と元通訳の男性との間で起きた金銭トラブルは皆さんも聞いたことがあると思います。なぜ元通訳の男性はこんなことをしてしまったのか…と本当に残念に思うのですが、お金を持つとその周りの人の質も変化していくのでしょう。お金を持つこと自体は決して悪いことではありませんが、欲望に目がくらんでしまうと、正常な判断ができなくなります。気を付けたいものです。
 さて、本日の聖書箇所「テモテへの第一の手紙」はテモテという人物に宛てた、パウロによる牧会書簡という位置づけですが、書かれている信仰の捉え方がパウロ自ら執筆した書簡と異なる点が多く、他者がパウロの名前を使って送った書簡ではないかと言われています。その真意は今もわからず、聖書学者の中で議論されているそうです。しかしこのテモテへの第一の手紙は私たちに強い励ましを与えてくれるものであります。
 さて本日の聖書箇所6章11節から16節を見てください。最初に「しかし」という言葉が出てきます。これは前の内容に関している言葉ですので、少し長いですが、ここで読みたいと思います。
 くびきの下にある奴隷はすべて、自分の主人を、真に尊敬すべき者として仰ぐべきである。それは、神の御名と教とが、そしりを受けないためである。信者である主人を持っている者たちは、その主人が兄弟であるというので軽視してはならない。むしろ、ますます励んで仕えるべきである。その益を受ける主人は、信者であり愛されている人だからである。
 あなたは、これらのことを教えかつ勧めなさい。もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば、彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしのないいがみ合いが起こるのである。しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつもたないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまな情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。
 当時このテモテが教え宣めていたキリスト教会の信徒たちの状況、またそれを囲む社会がどうであったかは不明な点が多いのですが、先ほどお読みした6章1節から10節からすると、非常に信仰において不健全なものであると感じます。わたしたちは「奴隷」という言葉を聞くと驚きますが、聖書が書かれた時代のユダヤ教社会では奴隷を雇うこと自体何も特別なことではありませんでした。旧約聖書でもモーセが受けた神の戒めの中には、奴隷を持つことや自身が奴隷になる状況についての記述があります。それによれば、奴隷を持つならばその奴隷を自分のものとして、愛を持って大切に接すること。奴隷になるならばよく主人に仕え、妬みやそねみを持つことは決してしないように、ということを戒めています。わたしたちが抱く奴隷への印象は、不当な扱いを受け、苦しい労働をさせられているというものでありますが、それは出エジプト記におけるイスラエルの民が受けた重労働の様子であったり、第二次世界大戦中のナチスドイツによるユダヤ人への重労働及や迫害であったり、アメリカにおける有色人種への不当な差別であったりします。しかしそれはユダヤ教による奴隷とはことなるもので、わたしたちが持つ奴隷へのイメージはユダヤの地での奴隷とは全く異なっています。現に主イエスのことを「神の奴隷」と呼ぶこともあります。この言葉は現代のわたしたちにとってはどう捉えたらよいかわからなくなりますが、聖書的に神に従順な者を指しているということが言えます。ですからその主イエスを信じる人々も従順になろうと促していると理解することができます。
 実際この書簡を送られたテモテやその周りにいる人々の質はどうだったのでしょうか。聖書を読む限りではとても良いものではなかったのではないかと容易に想像できます。6章3節には「もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば…」という言葉があります。実際にそのような問題が起こらなければ書簡を送る必要はないはずです。つまりテモテのいる教会は3節にあるような問題を抱えた人々が多くいたのでしょう。実際テモテがいたとされるマケドニアにおいて、キリスト教会が金銭を求めて健全な信仰を守ることができなくなったという事件が起こりました。それが起きたのはすでにパウロはなくなった後であるため、このテモテへの手紙がパウロではない第三者が書いたのではないかという根拠となります。しかしパウロが書いたとしても別の誰かが書いたにしても、このマケドニアで起きている信仰の問題は2000年以上経った今でも共通するものがあります。
 そしてそれに対して「義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。」と勧めています。これはローマ人への手紙5章3節「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す…」という言葉と、コリント人への第一の手紙12章13節「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」これら2か所のパウロの言葉を引用したのでしょう。自分の利益ばかり追い求めるのではなく、ただ神の義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めよ。心に深く入ってくる言葉であると思います。そして同時にわたしたちもこの戒めを守り、追い求めることが大切だと思います。
 実際私自身も一時期お金に目がくらむという経験をしたことがあります。大学時代にバーでアルバイトしていた時に、高級ホテルのバーテンダーがスカウトしに来たことがありました。これから先、沢山のお客が来る。バーテンダーとして立てばこれくらいの年収になる。今からでもわたしと働かないかと。提示してきた金額は目がくらむほどで、正直自分がこのお金をもらうことを想像したときに、とても楽しそうだ!と思いました。その甘い蜜に乗りかけました。しかし大学院1年生という立場上すぐに返事ができず、考えさせてもらうことになりました。バーで働くことは楽しいですし、自分の好きなことで生きていくことの面白さを感じていました。またたくさん働いた分、アルバイト代としてたくさんもらえ、生活の雰囲気や質も働く前では考えられないほど豪華なものとなりました。しかし心に大きな穴が開いている感覚があり、働いてもこの穴がふさがることがなく、むしろどんどん広がっていくように思いました。ある時その穴が限界まで開いたとき、わたしはどうなってしまうのだろうという恐怖を覚えました。その悶々とした日々を過ごしている中で、教会に行き祈っているとき、心の穴が塞がっていく感覚がありました。あぁそうか、これがわたしの追い求めるものなのか…、歩む道なのか…。神様、わかりました。もう好きなことをし尽しました。もうあなたにこの身を捧げます。もう好きなようにお遣わし下さいと祈り、とても心が満たされました。後にわかったことですが、そのスカウトしてきた人のバーはコロナウイルスによる規制に影響し、ホテル事業縮小によって2021年に閉じてしまったそうです。もしこのままあの言葉に誘われていたら…と考えると、恐ろしくなります。
 わたしたちが追い求めるものは人が作ったお金や名声や誇りなどではなく、「義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和」です。お金がなくては生きていくことは難しいですが、それに目がくらんでしまってはいけない。わたしたちを真に助けてくれるのはお金でも名声でもなく、神であるからです。だからこそわたしたちはこの戒めを、主が再びこの地上に来られるときまで守っていくべきなのです。

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